ネテモサメテモ

強がったポーズの女の子

遺伝子検査から考えたことなど

死産した子には先天的な異常があったため
胎盤と臍帯を検査にだしました

昨日、死産から2週間後の検診に行ったら

遺伝子検査の結果報告にはまた2週間後に
ご主人と来てくださいとのこと

ビビりのわたしは、
もうすでに結果は出ているけれど
悪い結果だから夫を同席させるのでは?
と今から怯えています

でもわたしが調べたところによると
あしたが持っていた疑いのある
ダンディウォーカー症候群は
遺伝性は少なく孤発例が多いとのこと

わたしの遺伝子異常による
遺伝でなかったらよいのですが…

もし遺伝だったとしたら
今後の遺伝子異常による死産の可能性が高い

でも、あの悪阻と死産を繰り返すのは
さすがに辛すぎる…ううう

着床前診断とか里子とかの今後の可能性も
考えた方がいいのかな、と
そういうサイトやブログを見て回ったりしてます

結果が出るのがこわいなぁ

【追記】

3月8日 結果がでました

あしたには遺伝子異常は見られなかったとのこと

よってその両親であるわたしたちにも
遺伝子異常はないであろうということで

次の妊娠で流産や死産を繰り返す確率は
低いだろうという見解でした

結果にはほっと安心しましたが
複雑な気持ちにもなりました

今回結果が出る前に色々と調べたことで、
自身に遺伝子異常があり
それでも子どもがほしいと
辛い治療をしたり、里子をもらう決断をしたり
そういうひとたちの存在を知ったから

でも知ったことにはなにか意味があるかも
少なくともそういう人たちがいることを
わたしは知ったわけで
知っている人なりの言動をしていかねば、
とおもいました

悪阻が酷かったときや
死産したときにもおもったけれど
弱者やマイノリティの声はなかなか聞こえてこない

自ら知って、調べないと
その実情を知ることは難しい

そしてそのきっかけは、
自身や周りのひとが当事者になること
それまでは無関心でしかない

健康で健全なのが当たり前のこの社会

健康で健全なのはもちろんよいことだけれど
そういうひとたちこそ
弱者やマイノリティの声に耳を傾けて
そういう人たちの存在を知って
尊厳を尊重してほしいな、とおもいます

決して無神経な人間にならないように
そのためにも知識と見聞の幅を広げたいな

死産の報告について

あくまでもわたしの場合、
死産にまつわることで
一番つらいのは友人知人への報告です

死産時7ヶ月だったので
仲のよい人や付き合いのある人には
すでに妊娠報告済み

しかも年末年始には一時的に退院していて、
すでに6ヶ月目前ということもあり、
夫婦ともに年賀状で知らせてしまっていました

このことが自分たちの首を絞めています

わざわざ報告するのも、事が事だけに
自分も相手もつらいことだし、
かといって聞かれるのを待つのも…

でもわたしは時間が経っても
メールもLINEも電話もする勇気が出なかったので
よほど仲のよい友人以外には
結果的に聞かれるのを待つことになってます

本当に仲のよい友人とはTwitterで繋がっているので
このブログを拡散することで報告としました

ブログ見たよ、つらかったね
返信は不要だよ

って連絡をくれる人が多かったんだけど
これはほんとにありがたかった!

ブログ見た、ということで
死産のことを知ったってことがわかるし
返信は精神的にできたりできなかったりしたから

入院中にブログを始めてたことが
こんな形で役に立つとは、
おもってもみませんでした

親兄弟、職場には夫から電話をしてもらったので
わたしの口からは、まだ誰にも報告してなくて

自分でこのことを口にしたとき
どんな気持ちになるか、想像もつきません
意外と大丈夫かな?という気がしなくもないけど
こわい気持ちが強いのです

今、わたしの直近の悩みは
行きつけの美容院に行けないこと…

夫婦で通っているのですが
妊娠したこと、悪阻が酷くて入院してたことなど
報告してしまったので
ぺたんこのおなかで行くのが気まずくて

でもこういう機会はこれからもあるだろうから
勇気を持って行かないととおもいます

でもやっぱり憂鬱だなぁ

妊娠悪阻、死産後の思い

死産後、まだまだ普段通りとはいきません

なにが苦しいのか考えてみる

ひとつは食べること、飲むこと

妊娠悪阻で苦しんでいた3ヶ月間
お腹の子のためにがんばっていた

美味しいから、とか
自分のからだのためではなく
子どものためだけに、
食べて飲まなければと、毎日必死だった

だからお腹が空になった今
食べ飲みする意味がわからなくなって
すごく混乱した

死産してから1週間経って
ものが食べられるようになった
ちゃんと美味しく感じられる

だけどやっぱり食べる意味がわからないし
お腹一杯になって自己嫌悪になったりもする

ふたつめがこれ

笑ったり楽しんだり歌ったり
そうやって時間を過ごすことに戸惑いがある

大きな、大切なものをなくしたのに
なんでわたしは笑ってるのかなって
わからなくなる

人生を楽しんで生きること
なにかに夢中になること

そうやって時間を過ごしてるとき
あしたのことを忘れてる

あしたのことを想わない時間が増えることが
悪いような気がする
いつもいつもあしたのことを想っていたいのに

おはようとおやすみのときは
夫とふたり、あしたに挨拶することにしている

みっつめは自分が悪い人間だとおもうこと

誰か(芸能人とか)の悪口を言ったり、思ったり
誰かを妬んだり、僻んだり
ふっとそういうことをしてしまうと

わたしがこういうせせこましい
小さい人間だから
あしたはきてくれなかったのかな、とおもう

もっとよい人間になりたい、ならないと、
と思いはするのだけど
あしたに恥じない人間になりたいのだけど

それがそう簡単ではないことが苦しい

だんだん平気になるのだろうか?

あしたとさよなら【死産記録その6】

2月11日(祝)

わたしの両親と弟、夫の両親がきた
あしたの体を返してあげる日

朝から賑やかに
みんながあしたを抱っこしてくれた
写真も撮ってくれた

鼻は夫に似てるね
手指が長くて綺麗だね
肌が白くてピンク色をしてるね
太ももが立派だね

目を赤くしながら口々に言い合う

夫が用意したお寿司をみんなで食べて
火葬場へ向かう

わたしはまだ歩けなくて
車椅子を借りて、押してもらった

火葬場で、わたしはほとんど泣かなかった
あしたの魂はもうあちらにいっているから
体を返してあげられるのは
わたしにとって安堵の気持ちが大きかった

あしたの体にさよならするとき
みんな泣いていた
なぜだか泣いてもらえるとほっとする

あしたは24wだったのに
大きくて、成長が比較的早かったのもあってか
骨がたくさんのこった

赤ちゃんのお骨は
灰と粉ばかりかなとおもっていて
夫ともそう話していたので、うれしかった

係の方が骨の部位の説明をしてくれた
脳や顔、背や腕、足、
小さな骨を白い陶器の骨壺におさめた
箸ではなく、ピンセットだった

小さくなったあしたを連れて家に帰った

時間は変わらず過ぎていく

あしたとさよなら【死産記録その5】

2月10日(水)退院

昨日の深夜はあんなに殊勝なブログを書いたくせに
退院となると足がすくんでしまって
1日中泣いていた

昨日までの2日間、あしたと過ごして
幸せだったのは事実なのに

わたしは真実から目を背けて過ごしていただけで
結局吹っ切れていたわけではなかった
こころの傷は見えない

どちらかというとメンタル強い方で
メンヘラぽくなったことはなかったけど
今はまさにそれ、でもどうしようもない

外に出るのがこわい
人と会うのがこわい
安心できる病院から出たくない

こんな思いを抱えて、こんな経験をして
これからとても生きて行ける気がしない
どうやったら消化していける?

大切なひとを亡くしたのに
わたしが生きていく意味がわからない
死にたい、死にたい、

とてもつらい

どうしよう
こんな気持ちが産後休暇の8週間ぽっちで
癒されるのだろうか

時間がわたしをいつか癒す
わかっているけど、今は今で
わたしは今、このときから逃げられない

ひとはみな
自分を責めないでね
誰のせいでもないんだよと言ってくれるけど

わたしは暇さえあれば
責任の所在を、理由を、原因を探してる
それが見つかると楽だから

何も原因はない
わたしも夫も悪くないのならば
なんであしたは逝ってしまったのか
誰も教えてくれない

わたしはこれまで
苦しんだ分、努力した分は報われると
本気でおもっていた
辛くても見方を変えれば糧がある、と

でも悪阻で苦しみ抜いて
必死の思いで産んだあしたに1秒も会えなかった
でもあしたのせいにはできない
あしたには、来てくれてありがとうとしか言えない
矛盾してるみたいだけど、それは本心だ

この苦しみを誰にも伝えられない
どう思われるのか、何を言われるのか
考えるだけでおそろしくて
そんな情けない自分に嫌気が差す

文章を書くことでしか表現できない
吐き出すことすらできない
なんて弱虫なんだろう

あしたとさよなら【死産記録その4】

2月9日

あしたを産んだ次の日

わたしたちは幸せだった
死産をした夫婦にはとても見えなかったとおもう

わたしも死産をしてなお
こんなに安穏とした気持ちになれるとは
おもわなかった

すべては夫の愛情深さがなせるわざだった

わたしは産前から飲み食いをろくにしておらず
出産後でさらに目眩やふらつきが酷く
ほとんどベッドに横になっていた

夫は部屋にいるときには
ずっとあしたを見て話しかけていた

顔がいかついね
般若みたいな顔だね
あれ?でもほんとは笑ってるのかな、って
どんどん乾燥してくあしたの顔にコメントしたり

わたしが無知をさらすような発言をすると
君のお母さんはバカだね~と話したり

最近どうなの?そうなんだ、産まれたんだ!
と近況報告?をしたりしてた

体液や血液を拭いたり
顔のポジションを変えたり
助産師さんと着替えをさせたり

本当に死んだ子の世話とは思えないほど
嬉しそうに行っていた
わたしだったらあそこまでできない

助産師さんに
「あしたくんを見てもいいですか?」と聞かれ
嬉しそうに案内し、
「親バカなんですけど…」と
手指の長さを自慢したりもしていた

夫が笑顔なのでわたしも笑えた

わたしは悪阻産後の体調と
火葬(家族が来る)のことで頭がいっぱいで
しかもベッドからほぼ起き上がれず
あまりあしたの顔も見てやれなくて
自責の念もあったのだけど

そんな夫とあしたを見ていると
本当に幸せだった

夫もそうだとおもう

でもやっぱりあしたが生きていてくれれば
夫はもっと幸せだったなぁ
わたしが元気に産んであげられれば
とは何度もおもった

夫はあしたの顔をさわりながら
「君は静かだし、いくらさわっても泣かないから
 何も気にしなくてよくていいよ~」と
言っていたけれど

二人とも本当は
あしたの泣き声が聞きたくてたまらなかった

わたしは昨日のお産が
(自分の経験として)いいものに違いないと
思ってはいたけれど

陣痛に耐えながら、
これを後何度か経験するのか…耐えられん
と思っていたし

死産を乗り越えるのには
月日が必要だなとも感じていたので

次の子どもは30過ぎてからでもいいかも…
と勝手に考えていたのだけど、

死産の胎児を相手に
あんなにも幸せそうな夫を見ていると

この人との生きて成長する子ども、
あしたの弟か妹もやっぱりほしいな

夫にわたしが返せることはこれが一番だなと
思い直した

また一定期間を置いたら
子どもをもうけるとおもう

あしたがわたしにくれたものは
命の尊さと
夫のかけがえなさ

明後日にはさよならだけれど
それまでの日々を夫、互いの両親と
大切に過ごしたい

あしたとさよなら【死産記録その3】

平成28年2月8日(月)

あしたを産んだ日

朝、ラミナリア12本を抜く
子宮口は3㎝ほど開いているとのこと

そのまま分娩室へ移動
陣痛促進剤の点滴が始まる

一昨日から(というか3度目の入院では)
飲み食い一切できていないので
水分補給の点滴も引き続きなされる

分娩台に乗った10時前から、
すぐに定期的な陣痛が始まる

でも最初はまだまだ微弱な陣痛で
生理痛のちょっと痛いときくらいなので
夫と助産師さんと談笑できるレベル

夫は立ち会いができる喜びでハイテンション
モニター(お腹の張りを図る機械)の読み方を
助産師さんに尋ねたりしていた

夫の明るさに救われ、
死んだ子を産むことへの恐怖も
もうすぐ会えるという期待へと変わった

事実、夫は死んでいてもなお
あしたに会えるのを楽しみにしていた

お産の進め方やいきみの逃がしかた、いきみかた
誰にも教わらなかったし、
助産師さんも教えてくれなかったので

夫が前日に教えてくれた
「とにかく息を吐くことで痛みが和らぐから」
という言葉を信じて、陣痛の波に
ふーーーーーーと耐え続けた

4㎝、6㎝、このあたりが山場で
陣痛はぐんぐん加速していった

もう痛いということしか考えられない

下腹部と、腰が砕けそうに痛い
夫はほんとにずーっと手を休めることなく
わたしの腰をさすった
陣痛がないときも、さすり続けてくれた
もちろんずっと声をかけてくれながら

わたしは全然ひとりじゃなかった

助産師さんも交替で1、2人
常についていてくれて
その人その人の支援をしてくれたので
不安がなかった

なによりわたしには夫がついていた

どうにかなりそうなレベルの痛みで
もう陣痛の波も何もわからなくなって
我を失ってひたすら叫んでいたら

わたしの悪阻入院の担当の助産師さんが
「ちょっとお話聞けますか?」と声をかけてくれた
 
 「今、冷静になれてるでしょ
 あまり体力使うと持たないから、
 そのくらいの冷静さで臨んだ方がいいよ」と
アドバイスをしてくれて、

そこから痛みは変わらないはずなのに
陣痛の波の満ち引きを見極めて
痛みを逃がすことができるようになった

これでかなり楽になった

赤ちゃんは羊水の袋に入って下りてきていて
助産師さんが内診して
「もうそこまできているよ、頭だよ、よかったね」
と教えてくれた

頭から出てきているということで安心したけど
破水しなければ綺麗に産めると知ってたので
いきまずに下ろしたかった

あしたの祖父母に
綺麗なかたちで見てもらいたかったから

その気持ちで陣痛に耐えた

でも耐えられない波がいくつかきて
ついにいきんでしまい、

助産師さんに
「すごくいきみたいんですけど、大丈夫ですかっ」
と尋ねながらもいきみは止められず、
そのままあしたがするっと産まれた

17:39
分娩台に上がって8時間後のこと

その後、担当医がきて
1時間かけて後産の処置
お腹を圧されるのが痛かったけれど
陣痛ほどではなかった

夫はこのときもわたしの手を握ってくれていて
後日、胎盤を「レバーみたいだった」と言ってた

あしたが産まれたとき
綺麗な赤ちゃんですよ、
いま見ますか?後にしますか?と聞かれ
後で夫婦で見ますと伝えた

あしたは、助産師さんたちの手で綺麗になって
ワゴンに乗ってわたしたちのところにきた

思っていたよりこわくなかった
新生児は大体そうだけど、
あしたも赤い小さなおばあさん、という風情

新生児より皮膚が弱いから
ところどころ剥けた皮膚が痛々しいけど
でもどんな顔立ちかよくわかった

体重は24週で850gもあった
身長は32㎝で、思ったより大きかった

二人とも疲れていたけれど
その顔立ちを眺めながら
鼻は夫に、唇はわたしに、手足の指もわたしにと
それぞれに似てるところを言い合って、

3人で写真を撮ったりして過ごした

基本的に母子同室の病院で
死産の場合も例外ではなく
預かりも同室も可能だということだったので

わたしたちは3人で幸せな時間を過ごした

産まれる前の不安は消えて
あしたと一緒にいられることが幸せで安心だった

夜は悲しくなって毎晩泣いたけど
わたしの泣き声を聞き付けると夫が起きてきて
そばにいて何も言わずに慰めてくれた