ネテモサメテモ

強がったポーズの女の子

「赤ちゃんはママを選んで産まれてくる」というお話について

昔は「子どもは親を選べない」と
言われていたものでしたが、
今はこの説が支持されることが多いみたいです

俗に言う胎内記憶からくる思想ですね

子を授かるより結構前から、
本やドラマでこの説を知っていたわたしは、
なんの疑いを持つこともなく、

「まーそういうこともあるだろう」
とおもっていました

わたしも子どもができたら、
「お腹にいるときどうだった?」って
聞く気満々でしたし

子を亡くしてからも、
特にその説に異論をもつことはありませんでした
でも友人にこの説の提唱者である医師の本を貰い、
初めて読んで、どことなく違和感を抱きました

わたしがもらったのは、
親を選んでくる子どもが死産した理由、
を中心に取り上げた本です

今やこの時点で結構な矛盾を感じる…
だって、選んできたんなら死ぬ必要あります?
赤子への文句みたいになっちゃうけど

話を元に戻して、
この本には、死産をした方の体験談が出てきます
そこには、赤ちゃんによる、死産した理由が
添えられています

初めは、「うんうん、まーわかる」みたいな
受け入れやすい事例が連ねられていたんですが、
だんだんエスカレートしてきて

わたしが決定的に違和感を感じたエピソードは
「赤ちゃんを授かる前、
 わたし(妊婦)は義父とあまり仲がよくなかった。
 でも子を亡くした体験を共有できたことで、
 仲がよくなった。」(超要約です)
というもの

さすがにこれには、はああん!?ってなりました
え、子を亡くした代償がそれ??
ちっちゃすぎじゃね??
そんなら一生義父とは不仲でもよかったのでは?
正直そうおもった

夫婦なら、まだ(言うても、まだ)わかる

でも実際には死産がきっかけで
別れる夫婦だっているよ?え、それ無視?

そういう視点でこの、
「赤ちゃんは親を選ぶ」説について考えると
他にもたくさん無視されてる人がいる

すなわちこの説が主流となることで、
マイノリティがうまれていることに気がついた

たとえば、
不妊治療を長いことしても子どもができない人
何度も流産や死産を繰り返している人

どうして自分たちを選ぶ赤ちゃんがいないのか
なぜ赤ちゃんは何度も去ってしまうのか、
この説で理由を探すのは辛すぎるし、
たぶん納得もできないのではないか

それに、親に殺される子どもたちは?

これについては、
子どもはそれを試練だと受け入れた上でうまれる
という解釈がなされています

いや、知らんわ

親戚でもご近所さんでも行政でもいい、
家庭で亡くなる前に子どもを助けてほしい、
そうわたしは思います

せっかく産まれてきたのに
死ぬこと前提で産まれてくるって解釈何なの?

自分の説を正当化するために
生き死ににまで言及するなんて、
あなたは神なのですか?と

確かに、
死産に理由をつけることで安心する人もいる
だからこの説が死産経験者に
役立つこともあるんだろうし、需要もあるんだろう

でも結局はこれ、
マジョリティのための説なんだな、って
わたしは自分がマイノリティになって、
初めてそう感じました

たとえば、子どもを育てているお母さん
辛いことも多い育児の中で、
自分を鼓舞したり、育児の意義を考えたり、
自分と子の結び付きを感じたりするために
この本はとても有用なのだとおもいます

そしてそのことを否定はしません
というか、それはできません

でも、この説はそういうママたちによって
支持され、主流となったんだろうなと、
それが透けて見えてしまったんです

不妊治療をしていたり、死産をした人は、
ふつうに子どもを授かって、
ふつうに産んで、ふつうに育てている人が
うらやましくて、妬ましくてたまらない、
そういう心理状態になってしまうことがあります

そういう人たちの目に、「ふつうのママ」は
「幸せいっぱいのママ」としてうつります

結局は、この、幸せママが支持する説なんだなぁ
幸福な人がいるだけで不幸になるひとがいる、
そういうことが本当にあるんだな、と感じました


ちなみにこの本のことで、
わたしは数ヵ月もやもやしていました

自分の考えに整理がつかなくて、
もやもやしてたんです

でも昨日、わたしの敬愛する方が
この説について、「気持ち悪いし、害悪」と
つぶやいていて、目からウロコでした

こういうこと、言っていいんだ!っていう

わたしがもやもやしていたのは、
こういう、人の生き死にに関することについては、
この説みたいな、前向きな思想を持つべきだと
そう思ってたからだったのでした

この説を否定すること、受け入れないことは、
自分の恥部、底の浅さをさらすことだと、
自分でも気づかないうちにそう感じていました

みんな聖人みたいになりたい
そこまでいかなくとも、「いい人」でいたい
ものごとはできるだけ否定したくない

そういう考えから、この説を信じて、
赤子を亡くしたことに意味を求めるんですよね

わたしは、
あしたを亡くしたことに意味を見出だすのは
わたし次第なんだ、
そうしなくてもいいんだ、と考えることで
少し楽になったように思います

だって明らかにあしたを亡くしてから
嫌な人間になってるから
妬んだりひがんだりね、
で、そういう自分を否定してました

でもそういう自分でもいいんだよな、と
思えるようになりました

なので、本を読んだことに、意義はありました
でも、もうこの説を全面支持することは
この先ないかもしれません